脇目もふらず

今日は自分の役割に脇目もふらず取り組んだ。

それしかやってない。

 

それはそれでいいことだけれど、ブログを書く時間がなくなった。

日課の筋トレをする時間もなくなった。朗読もしてない。

 

できなかったことにちょっと嫌な気持ちもあるのだけど、

これもいいか、という気もしている。

 

多分、優先順位付けが自分の中ではっきりしていないんだろう。

 

ブログはもっとちゃんと考えて書きたいから、もう少し時間を取ろう。

*(You're filled with DETERMINATION.)

UNDERTALE神ゲー

 

ここしばらくうだうだとくよくよしていたが、(ぐりとぐらみたい)

今日でやめにします。

 

やりたいことが見つからないとか自信がないとか言ってないで、とにかく今、今この時を頑張ろうと思う。

 

これは7年間の実績(何もしていないという実績)から言えることだが、このままいくと死ぬまでずーっとうだうだしてる気がする。

 

もう、とにかく、今のこと、今の自分の役割に集中する。

とにかくやり遂げるか本当にダメになるまでやって、ダメだったら別のことを考えようと思う。

 

他のことには手を出さない。

今はそれだけを考える。

 

 

 

飽きっぽい

何事にも飽きっぽい人っていると思うんだけど、自分はその極みだと思ってる。

 

うおおって熱が入って1日それに没頭したと思ったら、次の日それをやって数時間するともう熱が冷めちゃう。やる気なくなっちゃう。

 

やりたいことと、お金になることが一致したら最高だって昨日書いた気がするけど、

やりたいことがフラフラしすぎていてなかなか難しい。

 

昨日はこれ作りたいな、面白そうだ、ってなってたんだけどな…

今となってはこれ誰が使うんだ…ってなってる。

 

 

なんだろう、、

なんとなくだけど、自分は誰かのために何かする、のが向いてる気がする。

 

 

よく言えば、利他的。

悪く言えば、自己がない。

 

 

じゃあ誰かが自分に何も求めていない時はどうすんの、ってことになる。

 

 

求められた時の準備…ですかね。。

没頭できることと金になること

一致したら最高だなあ、という話。

 

駆け出しながらプログラマとして働いているが、仕事で作るものより自分が作りたいものを作っているときのほうが、ワクワクするし効率もすごくいい。

 

作りたいものを作って、みんなに喜ばれて、その対価で飯を食う。

これほど幸せなことはない。

 

それを探すのが、僕ら若者の課題なのかもしれない。

いや、人生の目的と言っても過言ではないかもなあ。

「自信」についてちょっと思ったこと

よく、「自分に自信がない」という言葉を目にする。耳にもする。自分からも聞く。

 

 

で、よくある啓発本の帯なんかに、「この本を読んで、自分に自信が持てました!」「こんな自分でも生きてていいんだと思えました。」なんて書いてある。

 

啓発本をバカにしたいとかそういうわけではなく、(むしろその目的でよく読む)

なにか根本的におかしくないか?と疑問に思った。

 

 

そもそも、「自信」ってなんだろう。

 

  1. [名](スル)自分で自分の能力や価値などを信じること。自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。「―を失う」「―満々」
「悉 (ことごと) く粋を尽くしていると―している」〈漱石虞美人草

 

だそうだ。ようするに、「自分を信じること」。自分で自分を信じる、ということだ。

つまり、自分を客体化して、その自分を信じるということだと思う。

 

 

 

ここで視点を変えて。

 

じゃあ、他人だったらどうだろう。どんな人を信じる?

僕が信頼を置いているのは、親しい友人、家族。

 

 

じゃあなんで信じるのか?

これまでの積み重ねだ。他愛もないことから大切なことまで、いろいろ話しあった。自分が辛い時にはそばにいてくれた。励ましてくれた。

要するに、これまでその人が自分に対してしてくれたことの分、その人への信頼がある。

 

 

話を啓発本に戻す。「友達を大切にする本」「友達のことをもっと知る本」「友達のために何ができるか」といった本を友人が読んでいたからといって、その友人を信じることができるだろうか。できないだろう。

 

 

「自信」は、主観の自分が客観の自分を見て、信じられる、ということだ。

この客観の自分、というのは「他人」と置き換えられるのではないか。

 

そうなると、「啓発本」を読んで自信がつきました、というのは、何か根底から違うものがあるのではないかと思う。

 

 

要するに、自信をつけたいなら、「自分」に対して「何かしらの行動を積み重ねる」しかないのではないか、ということ。

ブログと日記

自分の考えを強く持てるように、自分に自信を持てるようになるように、ブログを書き始めた。

 

数回しか書いていないのだが、今日ふと気づいた。

 

これは、考えを発信しているのではなく、ただの日記だ。

 

自分の体験をそのまま語っているだけで、そこに考察はない。(ちょっと言いすぎか)

書いていて何かうまく書けないなーなんて思っていたが、なんてことはない。

「書けない」のではなく、「考えていない」のだ。

 

自己研鑚が目的とはいえど「ブログ」という形をとっている以上、読み手のことを考えて書く必要がある。

 

名前も知らない、どこかの馬の骨が書いた日常日記なんて誰が読みたいだろうか。

僕は興味が無い。

 

 

これからは意識して書いていきたい。

 

ゆっくり歩いて、たくさん水を飲む

気分が落ち込んだ時は、よくランニングをする。

長い時間を、ゆっくり走る。

 

今も、ジリジリ日が照りつける中をアホのように走り、汗まみれになり、シャワーを浴びたところだ。

 

 

なぜか、暑くなってくると無性に走りたくなる。

クソ暑い中を、汗だくになりながら走るのがなんとも言えず心地よい。

一種のマゾなのかもしれない。なんてね。

 

 

ここ数年、ずっと悩んでいることがある。

自分についてだ。

 

子供の頃は勉強も運動もある程度なんでもできて、ちょっとした人気者だった。

だが年を重ねるにつれ、何もできない人間になっていた。よくある話かもしれない。

 

特に好きなこともなければ、やりたいこともない。

そうやって、高校から今に至るまでの7年間(!)もの時間を消費してきた。

 

騙し騙し生きてきたが、来年にはついに社会に出なければならない。

 

「社会に出たらやりたいことはできなくなるから、学生のうちにやっておけ」なんて言葉をよく聞く。

 

学生のうちにやりたいことがなかったら一生やりたいことはできなくなるのだろうか。

 

 

 

なーんてネガティブなことを書いているが、ランニング後なのでわりかし気分はスッキリしている。

 

とりあえず、今のやりたいことというか夢は、さっさと生涯賃金稼いで、リタイヤして、のどかな田舎で嫁さんと子供とのんびり暮らす(飯屋なんかできたらなお良い)こと。

 

 

俺は何がしたいんだろう、俺は何にもできない、と走りながらくよくよ考えていたが、

シャワー浴びながら、それ目指して頑張れば良いじゃないか!と閃いた。

 

 

まあ嫁さんのアテもないし、さっさと生涯賃金稼ぐのもとんでもない難易度なんだろうけど。

 

今23だが、30でそれができたら理想、最悪35までに……

 

 

これが今の僕の夢です。